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「サー・ヘンリー、もちろん当たり前じゃありませんよ」
答えたのは、モーティマーだった。早口につづける。
「御不快なのはわかりますが、ホテルに戻ればわかります。きっともう見つかっているでしょう」
サー・ヘンリーは肩をすくめた。
気に障る出来事だが、大騒ぎするのも馬鹿馬鹿しいと考えているようだった。
「わかったよ、じゃあ、本題に――」
サー・ヘンリーが言いかけたのを、ホームズがさえぎった。
「普段ならありえないようなことがあったなら、些細なことでもすべて話してください。靴が片方だけなくなったのですか? 部屋から消えたのでしょうか。それとも――」
「靴磨きに出してたんですよ」
笑われるどころか、思いもしない真剣な対応を受けて、サー・ヘンリーは戸惑いの色を浮かべながらも今朝の出来事を詳しく話した。
ワトスンも話に聞き入った。
片方だけが消えた靴。
奇妙な出来事だ。
真新しい靴を片方奪ったところで、何の役に立つだろうか。
モーティマーはそもそも問題視していなかったし、ヘンリーのほうも本気で案じているわけではなかった。
ホームズもこの話を長引かせることはなかった。
「モーティマー先生のおっしゃるように、ホテル側の手違いならじきに見つかるかもしれません。ワトスン、この件は少し様子を見ることにしようと思うが――」
「ああ、そうだな」
ワトスンはそっけなく答えた。ホームズがわざわざ呼びかけたのは、この案件にワトスンを強引にかかわらせようという意図があるのが見え見えだった。
サー・ヘンリーが身を乗り出した。毅然とした顔つきで要求する。
「些細ななんちゃらも含め、俺のほうの事情はすべてお話ししました。さあ、本題に入りましょう。聞かせてもらいますよ。モーティマー先生が俺をわざわざ探偵先生たちに引き合わせたわけをね」
モーティマーがちらりとホームズの顔をうかがった。
ホームズはうなずいた。
「モーティマー先生。どうぞお話ししてください」
促され、モーティマー医師ははじめて探偵たちに会った日に語ったのと同じ話を、あらためてサー・ヘンリーに聞かせた。
バスカウィル家に伝わる古文書、サー・チャールズの死についての新聞記事も読み上げた。
サー・ヘンリーは少なからぬショックを受けた様子で、顔色を失った。
おとぎ話程度の認識だった一族の古い伝承が、突然現実の脅威にかわったのだ。
例の手紙をまじまじと見つめ、眉間に深い皺を刻んだ。
「じゃあ、この手紙の主は伯父が地獄の犬に呪い殺されたと本気で信じてるかもしれないってことか。だが探偵さんの説じゃ、手紙を寄越したのは教育を受けたちゃんとした人間なんだろう? 迷信家からは一番遠いタイプじゃないのか」
「迷信なぞ露ほども信じない者なら、呪いの禍を怖れるかわりに、利用しようと考えつくかもしれません」
「どうやら、サーの称号やら土地財産ばかりでなく、何やらすさまじいものまで遺産に含まれてるようだな」
ヘンリーは軽い調子を装ったが、内心の動揺は苛立ちとなって表情ににじみ出た。モーティマーをじろりと見る目には剣呑な光がある。
「伯父は例の伝説を本気にしていたってことだよな。でも先生、あんたはちがう。俺をこうして探偵のもとに連れてきた。伯父と同じく、呪いや悪魔を怖れてるなら、教会に駆け込んだ方がよさそうなものだ。でなきゃ、呪い師にね。あんは呪いやら悪魔じゃなく、何かしら陰謀めいたことがあると考えてるから、探偵に相談した」
「いや、私はその……」
言いよどむ医師に、ヘンリーはずいと迫った。手にした手紙を鼻先につきつける。
「このおかしな手紙のことだって何か知ってるんじゃ――」
「手紙のことはまったく知らないことです。誓って、差出人にも心当たりは一切ありません」
モーティマー医師は言葉を被せる勢いで言い返した。
ヘンリーは険しい顔つきだ。納得できないと言わんばかりに眉を寄せ、口を開きかけたところで、ホームズが割って入った。
「あなたはどうされますか、サー・ヘンリー」
「どう、とは?」
尖った声でヘンリーは聞き返した。
その顔をまっすぐ見据えて、ホームズはずばり告げた。
「バスカウィル館に入るか否か」
「――、それは」
サー・ヘンリーはわずかに身を引いた。
頭にのぼった血が少しばかり冷えたようだ。
軽く咳払いし、考えぶかげな顔つきで尋ねた。
「危険があると思いますか? 伯父の身に起きた悲劇の裏に恐ろしい陰謀の黒幕がいて、俺にも害をなす気でしょうか」
「何かしらの対策は必要だと考えます」
「ねえ、ホームズさん、言っておくが、地獄の悪魔の遣いにしろ、悪党の陰謀にしろ、俺が先祖代々の館に入るのを邪魔させる気はありませんよ。とはいえ――」
精悍な顔に刹那、小ずるい表情が浮かんだ。
「思ってもなかったことを聞かされたわけで、少しばかり考える時間は必要だ。ええ、あんたの言う通り、危険があるなら対応策も練りたい。――今、十一時半ですから……」
懐中時計を取りだして時間を確かめたあと、探偵たちのほうを向いてつづけた。
「ホームズさん、ワトスンさん、二時にホテルまで来てくれませんか。昼食をご一緒できるなら、その時までには俺自身の考えをしっかり決めておきますよ」
「承知しました」
ワトスンの都合など確かめることなく、ホームズは答えた。
「馬車を呼びますか」
「いや、けっこう」
サー・ヘンリーは少しばかり疲れた顔つきで手をふった。
「気分転換がてらに歩きます」
「お供しますよ」
モーティマー医師がすかさず言う。
ふたりは連れ立って部屋を出て行った。
ホームズは薄く微笑み、彼らを見送った。
「それでは二時に。ごきげんよう」
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