「なぜ昨日の《タイムズ》だとわかったのですか?」
眉をひそめて尋ねたあと、ハッとしたふうにモーティマー医師は息をのんだ。神経質そうな顔に畏敬の念を浮かべて問いかける。
「ひょっとして、すべての記事を一言一句記憶されているのですか」
「そんなバカげたことはしません。昨日作成した手紙と仮定し、昨日の新聞を真っ先に確認したまでです」
ホームズはそっけなく答えた。
常々彼は、人間の記憶の容量には上限があるのだから、不必要なことまで覚えているのは愚かしいことだと主張している。
その是非はさておき、たとえ地動説という常識的な知識にせよ、生きる上で不要ならばむしろ忘れてしまうべきだと。
「手紙からは他にも幾つかわかることがあります」
鼻白んだ様子のモーティマーを後目に、ホームズは淡々とつづけた。
「封筒の宛名や『ムーア』の文字はただ筆跡が荒っぽいだけではなく、インクが跳ね、ペンがひっかかった痕が複数見られる。封筒の宛名書きは三回もインクが切れている。ペン先が傷み、インク壺がほとんど空になっていたせいです。自宅にいるならそういう状況に陥ることはまずない。ですがホテルのペンやインクなら珍しいことではありません。おそらくサー・ヘンリーの宿泊先を突きとめたあと、チャリング・クロス駅周辺のホテルに部屋をとり、この手紙を作成したのでしょう」
「なるほど、おっしゃるぶんには矛盾はなさそうです。しかし――」
モーティマーは小さく首を横にふった。
「差出人の正体を突きとめるのは難しそうですな。もう少し絞り込めれば」
「それなら――」
ワトスンは手紙の差出人が、香水をふりかけたご婦人である可能性を口に出しかけた。
が、ホームズの目配せに気づいて言葉を飲み込み、別の話をした。
「消印から判断して、チャリング・クロス周辺のホテルのごみ箱を調べて、論説が切り取られた《タイムズ》を探しだすことができれば、差出人が宿泊したホテルは判明する。そこからサー・ヘンリーとかかわりある人物を見つけるのは難しくないだろう」
「なるほどな」
ヘンリーは目をきらりとさせ、勢い込んで言った。
「だいぶ手間だが、やらないよりはいい。嫌がらせにしろ、警告にしろ、どんな奴の仕業か突きとめてやろうじゃないか」
モーティマーが小さく咳払いし、ヘンリーの意気込みにいくぶん水を差したあと、問いかけた。
「他にわかることはありますか。たとえば、『ムーア』だけが手書きだったのは――」
「記事を切り抜いたのは爪切りバサミです」
ホームズがワトスンよりも先に口を開いた。
ヘンリーとモーティマーの視線がホームズに戻る。
「貼り付けに使ったのはアラビア糊。『ムーア』が手書きなのは、紙面に単語が見当たらなかったせいです。一文字ずつ切りぬく時間がなかったのでしょう。単語の並びは一列ではなく、『命』と言う単語はだいぶずれている。これも急いでいたから、文字を均一に並べる余裕がなかったと考えられます」
モーティマーは前屈みの姿勢で封筒を覗きこみうなずく。
「では住所の、この悪筆も急いだせいで――」
「筆跡をごまかすためでしょう。そもそも記事の切り抜きを使っているのも、本来の筆跡を知られたくないせいです。つまり手紙の主はサー・ヘンリーに筆跡を知られる恐れがある人物――すでに知り合っているか、あるいはこれから知り合うか――」
ホームズは静かな眼差しでサー・ヘンリーを見据え、問いかけた。
「サー・ヘンリー。ここに来る前、この手紙の他にも、気がかりな出来事があったのではありませんか」
「……なくはない、な」
ヘンリーは頭をかきながら、首をひねった。
「モーティマー先生はただの手違いでたいした問題じゃないって言うし、俺もまあ、探偵向きかどうかと言われると首を傾げるところだが――」
「きっとすぐに出てきますよ」
モーティマー医師がヘンリーに囁きかけたが、ホームズは無視した。
「話してください」
「うーん。聞きたいと言ったのはそっちだ。なんだ、そんなことと笑うのはなしに願いますよ」
そう牽制してから、ヘンリーはホームズとワトスンの顔をじろりと見た。
探偵たちがうなずき、先を促すと、彼は皮肉めかした口調でつづけた。
「俺はこの国で生まれはしたが、人生のほとんどをアメリカとカナダで過ごしてきた。そこで、ひとつ確認しておきたい。我が生まれ故郷の都、ロンドンじゃ、朝になったら靴が片方消えてるのが当たり前じゃないってことをね」