シャーロック・ホームズの事件秘録

《バスカウィルの悪霊》連載中

《バスカウィルの悪霊》

🏠 📕コナン・ドイル著『バスカヴィル家の犬』をベースとした物語。『バスカヴィル家の犬』含め、ホームズ正典のネタバレを含みます。 📚 シャーロック・ホームズの事件秘録 について

プロローグ  (3)

Ⅰ 肖像画家 (15)

Ⅱ バスカウィル家の猟犬 (15) 

Ⅲ  サー・ヘンリー・バスカヴィル (19) 

Ⅳ ゲームキーパー  (連載中)

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Ⅳ ゲームキーパー 1

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 そのブーツは暖炉のマントルピースの上にあった。
 ノーサンバランド・ホテルの三階のスイートルームの居間の暖炉だ。
 宿泊者名簿には、この部屋の滞在者の名はオールドモア夫人とある。
 彼女はノーサンバランド・ホテルの常連で、支配人がことさら気を遣う客人だった。
 厳格で気難しい中年婦人で、蒲柳の性質で病気がちだった。
 たびたび国外の保養地で過ごしたが、ロンドンに発ち寄る際はノーサンバランド・ホテルに滞在した。
 夫はグロスターの市長を務めたこともある名士で、ホテルの出資者の一人だという噂もあった。
 
 九月二十八日、サー・ヘンリー・バスカヴィルがこのホテルにチェックインした半時間ほどあとに、オールドモア夫人は半年ぶりに姿を見せた。
 彼女は旅先でも普段通りの暮らしを望んだ。いつものようにたいそうな荷物が部屋に運びこまれ、若いメイドが付き従っていた。
 九月二十九日の朝、夫人はベッドで朝食を済ませた。
 その姿は美しく優雅である。
 気難しさはかけらもなく朗らかで、健康的な食欲を示した。
 肩のあたりで束ねた茶色がかった金髪はつややかで、肌は陶器のようにすべらかだ。目鼻立ちのはっきりした華のある美女である。
 朝食を運んできたのは、夫人が連れてきたメイドだった。
 しかし食事を終えた夫人がサイドテーブルの上の呼び鈴を鳴らした時、現れたのは仕立ての良いフロックコートを身に着けた黒髪の少年だった。
 夫人は軽く眉をひそめたが、驚いた様子はなく尋ねた。

「出かけるの?」
「うん。気になることがあるから確かめなきゃ。サー・ヘンリーに届いた手紙のこと」

 少年は手際よく食器類をさげ、戻ってくると夫人の朝の身支度を手伝った。
 半時間ほどして寝室から居間に移った彼女は、ホテルの従業員らがよく知るオールドモア夫人だった。
 病弱で気難しいご婦人。
 華やかさはかけらもないくすんだ緑色のドレスを身に着けて、豊かな髪もひっつめて後ろで小さくまとめていた。
 ただし目元や口もとには微笑みが残っていたし、ちょっとしたしぐさのうちにも人目を引きつける艶やかな色気がにじみ出た。
 古風で落ちついた居間のなかで、彼女が目を止めたのは暖炉――、いや、靴だった。
 真新しいタン革の靴の片方――右の靴だ。
 オーク材のマントルピースには古めかしい銀の燭台や、陶器の置物が並んでいて、靴はそれらの中央に場違いな存在感を示していた。
 夫人は顔をくもらせた。

「A.J.」

 呼びかけると、窓辺に立って通りを見下ろしていた少年がふり返った。

「説明なさい。あの靴は何なの?」

 少年はにこりと笑った。

「サー・ヘンリー・バスカヴィルの靴だよ。廊下においてたのを片方届けさせた」
「片方? なぜ片方なの」
「なぜ?」

 きょとんとした顔で少年は聞き返した。

「片方で充分だからだよ。奥様。心配しないで。サー・チャールズを追わせたときも靴を使ったんだよ。その時も片方で充分だったんだ」
「怪しまれなかったの?」
「履き古した靴で、馬丁がおさがりをもらったところだったんだ」

 答えながら、少年は靴をのせた暖炉のほうに向かった。

「もちろん、馬丁が履く前にいただいた。で、イタチとか何か獣の仕業だろうってことでうやむやになったよ」
「そう、でもそれは田舎の話。ここは都会のホテルよ。どうせ盗むなら一足のほうが怪しまれない。ありふれた窃盗として、勝手に理由をつけてくれる。少なくともあなたは疑われない」
「誰かが濡れ衣着せられたら気の毒じゃないか」

 靴を手にとると頭上にかかげ、少年は踊るよう足取りでくるりと回る。暖炉に背を向けて、夫人と向き合った。

「それに靴ってけっこうかさばる。一足なんて持ち歩くとき目立つから不便だよ。これだって、返さなきゃいけないし――」
「使ったあとに返すつもりなの?」
「ちがう。使い物にならないから返す。だってこれ新品なんだよ」

 少年は大きなため息をつき、手にした靴を後ろに放り投げた。
 ゆるやかな放物線を描き、靴はマントルピースに並ぶ置物の間にある隙間――先ほどおかれていたのと寸分たがわぬ位置にすとんと落ちた。
 夫人は目をみはった。が、小さく咳払いすると不調法を咎めた。

「お行儀が悪いわね、A.J.」
「けど『お見事』って心のなかで思ったでしょ」

 夫人は片手を額にあてため息をついた。

「やはり向いてないんじゃないかしら、こういうこと。確かにあなたはとても頭がいい。そしてそうね。お見事よ。でもあなたのやり方を見ていると心配なの」

 少年はことんと首をかしげた。
 茶色の瞳から感情が抜け落ち、人形のように虚ろになった。
 が。それは一瞬のことで、たちまち生気を取り戻して楽しそうに笑った。

「素敵な計画を立てるだけじゃダメなんだね。うまくいかない。でもあの方はいつも完璧に成功させている。すごいよね」
「ええ、そうね」
 
 夫人は賛同したが、少年が口にした賛美ほどの熱量はなかった。
 少年はすっと前に出ると、軽やかな身のこなしで夫人の手をとった。もう一方の手を腰に回して引き寄せると、三拍子のステップで踊りだした。

「前から思ってたけど、奥様はあの方への尊敬が足りない」

 顔を覗きこむようにして耳元に唇を寄せて囁く。

「それって、もっと素敵なものを見てたせい?」
「さあ、どうかしら」

 夫人はすっと目を逸らした。長いまつ毛が瞳に影を落とし、憂いをつくる。

「ねえ、ソレって本当にそんなに素敵だったの? あの方よりも? ちょっと想像できない。だってボクはあの方をすごくすごく素敵だと思ってる。きちんと整理整頓されていて規律があって、ダイヤモンドなんかよりもずっと綺麗で素晴らしく値打ちがある。一番はあの方」

 ひそやかな声で、少年は口に出してはならないはずの名をささやいた。

 プロフェッサー・モリアーティ――。
 
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